一つの世界、多くの理論

Stephen M. Walt, International Relations: One World, Many Theories. (Foreign Policy, No. 110, Spring 1998, pp. 29-46.)


 ウォルト(シカゴ大学教授)によると、旧西側世界に冷戦コンセンサスをもたらした「X(エックス)論文」(当時米国務省政策企画室長であったジョージ・ケナンが、匿名Xで『フォーリン・アフェアーズ』誌に寄稿し、封じ込め政策を提唱した有名な論文。X, "The Sources of Soviet Conduct," Foreign Affairs, July 1947, pp. 566-582)に相当する、新しい一つの処方箋は、これまで様々な試みはあったものの、ポスト冷戦の世界にはまだ存在しないという。そのかわり、冷戦終焉の意義をめぐって、大きく分けて三つのグループ間の対立が見られる 。

 第一の視座からは、冷戦の終わりは大国間競争への回帰を意味すると主張される。冷戦期の二極対立は、国際政治の歴史の中でむしろ例外だったのであり、十九世紀に見られたような勢力均衡外交が復活するという見解である。この観点によると、冷戦期の前後で、国際関係の基本原理が質的に転換したとは見なされない。どちらの時期も、国家を中心としたパワーをめぐる競争が国際政治の支配原理である点に変わりがないからである。

 第二の視座に立つ者は、ポスト冷戦期においても引き続き国家が主要なアクターであるとみなすが、国家の取り組むべき問題群が軍事的競争から、経済的競争、国内福祉、環境保護などに変質したと考える。この質的変化の原因については種々の説が対立しているが、そのうちのいくつかを紹介すると、民主主義の広がり、相互核抑止の行き詰まり、国際的規範の変化などが原因としてあげられている。

 第三の視座は最もラディカルである。この所見を支持する者は、国家がいまだに最も重要なアクターであるかどうかに懐疑的である。領土的に固定した国家は、むしろ時代錯誤の遺物ではないかと疑われている。われわれは、このような新しい世界を記述する適切な語彙をまだ見つけることができていない、という。

 ウォルトは、ポスト冷戦期の国際政治学界の動向を、リアリズム、リベラリズム、コンストラクティビズムの対話として描き出している。彼は、三つのパラダイムの長所と短所を検討しながら、冷戦の終焉はパワーポリティクスの終わりをもたらしたわけではなく、これからもリアリズムが最も有効な分析道具になるであろう、と結論づけている。(付表「競合するパラダイム」を参照。この表にまとめられている三つのパラダイムは、上記の三つの思想潮流と単純に対応するものではないが、第一の視座はほぼリアリズムに相当し、第二・第三の視座は、リベラリズムとコンストラクティビズムの両者にほぼ対応する。これは、第二の立場に立つ者の中に、リベラリストとコンストラクティビストが混在し、第三の立場についても同様に両者が併存している、という意味である。リベラリスト、コンストラクティビストの各陣営内は一枚岩ではないから、このような乱れが生じる。なお、表には出てこないが、ウォルトは本文中で、国内政治を重視するアプローチについても、簡単に論じている。)

 しかし、ウォルトの議論で最も注目すべきなのは、どのような理論であっても、一つの理論は世界のごく一部しか説明することができず、われわれは複数の理論の共存と競合を歓迎すべきである、という彼の主張である。未来の「完全な外交家(complete diplomat)」は、リアリズムが強調する逃れようのないパワーの役割を認識するとともに、リベラリズムが教えてくれる国内諸力も心にとどめ、時にはコンストラクティビストの変化のビジョンに思いをいたすべきである。

 このような方法論的多元主義の擁護には、二つの解釈が可能であろう。第一の解釈は、一つ一つの理論は同じ世界についての部分表象であり、競合する理論は相互に補完的なものであり、異なる理論をうまく組み合わせることによって、われわれは完全な世界像を得ることができる、というものである。(ウォルトは明らかにこの観点に立脚している。)第二の解釈は、世界の「真理」は視点の持ち方に応じて複数存在するのであり、一つの真理に収斂するのは不可能であるし、また望ましくないとする相対主義的解釈である。後者は一見、不真面目な態度と思われるかもしれないが、必ずしもそういうわけではない。

 この点に関連して、アメリカのプラグマティスト、ローティ(Richard Rorty)が面白いことを言っている(R.ローティ『連帯と自由の哲学』岩波書店、一九八八年)。人間の生を世界の中に位置づけるのに二つの方法があるという。それは、「客観性(objectivity)」と「連帯性(solidarity)」である。ここでいう客観性とは、人間の認識とは独立に外界が存在し、人間以外の実在との関係において自分たちを記述する立場である。真理は実在への対応、実在との一致とみなされる。これに対して連帯とは、ある視点からの切り分けによって世界は人間の前に生じるのであり、われわれにできる最大限のことは自分たちが真とみなすものを出発点にするしかないという立場である。どこかに超越的な規範や絶対的真理が存在するとは考えない。連帯の立場にとって真理とは、共同体(コミュニティ)の中での、論拠を示した、強制によらない対話による間主観的合意に他ならない。自分たちの信念を出発点とする一方で(超越的視点がないとするなら、他にどこから始めればよいと言うのだろう)、他方で自分たちは間違っているかもしれないと考え、他人の言葉に耳を傾け、常に信念を修正する用意があり、われわれ人類の連帯を拡大して行こうとする立場である。評者は、真理を善と見なす、後者のようなプラグマティストに共感する者であるが、はたしてこの小論を通じて、連帯の輪を広げることができたであろうか。

(中沢 力)

発表:『国際問題』1998年9月号

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