William Wallace, "Truth and Power, Monks and Technocrats: Theory and Practice in International Relations," Review of International Studies, Vol. 22, No. 3 July 1996, pp. 301-321.
Ken Booth, "Discussion: A Reply to Wallace," Review of International Studies, Vol. 23, No. 3, July 1997, pp. 371-377.
Steve Smith, "Power and Truth: A Reply to William Wallace," Review of International Studies, Vol. 23, No. 4, October 1997, pp. 507-516.
96年に発表されたウィリアム・ウォレス(ロンドン大学 [LSE] 講師)の書評論文に対する反論が最近、英『国際学評論』誌に掲載されたので、この論争を取りあげてみたい。ウォレスは英国の国際研究学界を念頭におきながら、現実政治から遊離している最近の学界の傾向を批判し、知識人の責任として、学界は政策決定者に真理を伝え、よりよい統治にもっと貢献するべきである、と主張している。これに対して、ケン・ブース(ウェールズ大学教授)とスティーブ・スミス(ウェールズ大学教授)は、学界と政界の関係、理論と実践の関係に対するウォレスの見解の背後にひそむ危険性を指摘して、異議を唱えている。この反論がどのようなものであるかみる前に、ウォレスの議論を要約しておこう。
ウォレスによれば、国際関係論はその誕生時点から政策志向の学問であった。第一次世界大戦の惨禍への理想主義者の反応から、アカデミック・ディシプリンとしての国際関係論は生まれた。その後も、第二次世界大戦、核抑止、ベトナム戦争を始め、その時々の世界の重大問題と向き合うことで、国際関係論は学問的発展を遂げてきた。ところが90年代半ばの学界の状況は、実証的応用研究よりも哲学的・メタ理論的議論が幅をきかせ、現実の政治から隔絶してしまっている。実証研究なしでは、社会科学は文芸批評や言語哲学の一部門になってしまう。現在の国際政治学者は、修道院に籠もって教義の研究に明け暮れた中世の神学者のようである。学問(scholarship)が現実世界との接触を断つとき、それはスコラ学(scholasticism)に堕してしまうのであり、最近の学界の風潮は非常に嘆かわしい。開かれた市民社会に生きる知識人は、建設的批判者、若い世代の教育者、政策の助言者として、社会に責任を持っている。いまこそ、学問と政治との健全な関係(政治べったりでもなく、象牙の塔に閉じこもるのでもない半ば超然とした立場 the case for semi-detachment)を取り戻し、権力に真理を語り、世界の改良に貢献しなければならない。
以下、このようなウォレスの力説に対するブースとスミスの反論を検討して行きたい。ブースもスミスも七つから八つの論点をあげているが、ここではそのすべてを紹介することはできない。とくに重要だと思われるポイントだけ取りあげてみたい。
ウォレスは、最近の理論家は実証研究にほとんど関心がなく、理論のための理論研究に陥っていると批判するが、ブースとスミスはふたりとも、それは完全な誤解であると反発している。ふたりは現実世界に興味のない国際関係研究者を知らないし、ふたり自身もその例外ではないという。ウォレスはポストモダニストたちは言葉遊びに興じていると揶揄するが、ブースにとって言語はきわめて政治的なものであり、社会科学の立派な研究対象である。言葉は現実を反映するばかりでなく、言葉が世界を形作るからである。言葉遊び(word games)は世界ゲーム(world games)でもある。ブースにいわせれば、言語の研究は、現実の国際政治と関係のない、単なる思弁ではない。言語はまさに政治の本質を構成するものなのである。
スミスはウォレスの政治の捉え方が狭すぎると批判する。ウォレスの政治は、公共の立法・行政に限られている。しかし、スミスにとって、次のような問いが政治の理解に決定的に重要なのである。なぜ、どのようにして、ある問題は政治問題とされ、別の問題は政治には関係がないと排除されるのか。何が政治的であり、何が政治的でないか、それを決めるものは何か。その答えは認識論にある、とスミスはいう。ここでいう認識論とは、ふだんは暗黙の前提とされ、疑問に付されることのない、われわれの知を正当化する根拠のことである。何を政治的であると定義するかは、何を当然と考え、何を問題とするのかというわれわれの世界認識の枠組みと深く関わっている。そしてこの定義が、実際の世界での利益配分に少なからぬ影響を与えているのである。政治的含意を持たない認識論はない、というわけだ。
右の論点と関連するが、スミスは政策科学としての国際関係論を危険視する。政策決定者は学者から真理を聞きたいのではない。自己の政策を正当化する論理がほしいのである。政策当局者の世界認識と相容れない見解を持つ学者は、政策決定者に話すら聞いてもらえないだろう。政策に影響を及ぼすには、政策決定者と基本的に認識と関心を共有し、彼らが対処すべきだと考える課題に助言を与えるのでなければならない。政策決定者の前提を受け入れたうえでなければ耳を貸してもらえないとするならば、公共政策に対する助言は、学問の中立の名の下でなされる、きわめて政治的な行為なのである。
ウォレスとブース、スミスとの理論と実践に関する見解の相違は、彼らの哲学的前提の違いからきている。これは実証主義者とポスト実証主義者との差異であり、言語学のソシュール(Ferdinand de Saussure)、社会理論のフーコー(Michel Foucault)、科学哲学のクーン(Thomas S. Kuhn)らの世界観を受け入れるか否かという違いでもある。ウォレスは哲学的には、クーンとパラダイム論争を展開したポパー(Karl Raimund Popper)に依拠している。ポパーは認識対象たる世界の実在と客観的真理の可能性を信じ、客観的知識にもとづいた社会の漸進的改良を夢見た。この立場からすれば、研究者は実務家に世界の本当の姿を教え、世界を住みよいものにするのに力を貸すことができるし、その処方箋を正しく伝える責任がある。ところが、人間にとって世界は客観的に存在するのではなく、人間が言語の力で世界を分節化し社会を構成していると考えるスミスら、ポスト実証主義者によれば、客観的知識とされるものは、その時代のさまざまな認識的拘束の下でなされた間主観的合意に他ならなず、普遍的で中立的な政策提言などあり得ないことになる。「真理」の言説生産過程の政治性こそ、まず解明されなければならないのである。
両者の溝は深く、共約不可能(incommensurable)かもしれないが、相互に理解不能(incomprehensible)というわけではない。実証主義、ポスト実証主義の両陣営が、認識枠組みの暗黙の前提を相互に明らかにしながら、論拠を示しつつ対話を続けるならば、この対話を通じてわれわれの世界理解は大いに深まるはずである。その際、現実世界の問題を題材にすべきであるとする点で、両者は一致しているのだから。
(中沢 力)
発表:『国際問題』1998年6月号