トゥキュディデス―コンストラクティビズムの創始者?

Richard Ned Lebow, "Thucydides the Constructivist," American Political Science Review, Vol. 95, No. 3, September 2001, pp. 547-560.


 古代ギリシアの歴史家トゥキュディデスはリアリズム(現実主義)の始祖とされる。(土山實夫「リアリズムの再構築は可能か―ツキュディデスと現代国際政治学」『国際政治』124号、2000年3月、四五〜六三頁)。ネオリアリストの代表的な論者であるギルピンはかつて、「新しいリアリストが国際経済と国際政治の相互作用に関して興味深いと思うすべて、いやほとんどすべては『ペロポネソス戦史』のなかに見られる」と述べた(Robert Gilpin, "The Richness of the Tradition of Political Realism," International Organization, Vol. 38, No. 2, 1984, pp. 287-304.)。ギルピンによれば、リアリストは次の三つの理論的前提を共有する。(1)国際問題は、基本的に対立的性質を持つ。国際政治において、アナーキーが支配的現実であって、秩序・正義・道徳はむしろ例外である。(2)社会的現実の本質は集団である。この集団とは、トゥキュディデスの時代にはポリスであり、現代では国家である。(3)権力と安全保障が、人間行動の動機の第一位を占める。リアリストは、真・善・美といった高尚な価値を否定するものではないが、社会集団間の権力闘争から安全が確保されてはじめて、より高次の目標追求が可能となる。

 ここに紹介する論文のなかでルボウ(オハイオ州立大学教授)は、トゥキュディデスをコンストラクティビズム(構成主義)の創始者として読むべきことを提唱している。コンストラクティビズムの理論的出発点は、次の二点である。(1)自然的事実と社会的事実とを区別し、人間の認識から独立して存在しうる自然的現実とは異なり、社会科学者が扱う社会的現実は人間自身が社会的に構成した慣習(convention)に依拠している。したがって、社会的慣習が変化すれば、「事実」に対する認識や行動も変化する。(2)社会的慣習とは、人間の行為を制約する規範や、認識を規定する言語である。規範を重視するコンストラクティビストは実証主義と整合的であり、言語を強調するコンストラクティビストはポスト実証主義やポストモダニズムに接近する(拙稿「『第三論争』再考」『国際問題』1999年4月号、参照)。ルボウによれば、トゥキュディデスは後者のコンストラクティビストであるという。

 古代ギリシアには、ピュシスとノモスを対立させて考える哲学的伝統があった。従来の標準的な国際政治学の解釈では、権力を求める人間のピュシス(自然の性質)がノモス(法・慣習・制度)を凌駕する側面を捉えて、トゥキュディデスをリアリストの祖としてきた。たとえば、「内乱の一般的考察」(『戦史』巻2第82章)といわれる部分でトゥキュディデスは以下のように述べる。「このようにして内乱は残虐の度を増しつつ荒れ狂った。…この時生じたごとき実例は、人間の性情が変わらないかぎり、個々の事件の条件の違いに応じて多少の緩急の差や形態の差こそあれ、未来の歴史にも繰り返されるであろう。…これらすべての原因は、物欲と名誉欲に促された権勢欲であり、さらにこれらの諸欲に憑かれた者たちの、盲目的な党派心であった。…言葉のうえでは国家公共の善に尽くすと言いながら、公の益を私物化せんとし、反対派に勝つためにはあらゆる術策を用いて抗争し、ついには極端な残虐行為すら辞さず、またこれを受けた側はさらに過激な復讐劇をやってのけた。かくのごとき争いに落ちた者らは、正邪の判断や国家の利害得失をもって行動の規範とはせず、反対派をしたたか傷つけるその場の快感がえられるまで争い、当座かぎりの勝利欲を貪欲に充たすために、不正投票による判決であれ、実力行使の横暴であれ、権勢獲得の手段であれば、何のためらいもなく実行した。」

 しかし、ルボウは同じ「内乱の一般的考察」の次の部分に着目するよう、我々の注意を喚起する。「平和と繁栄のさなかにあれば、国家も個人も己の意に反するごとき強制の下におかれることがないために、よりよき判断を選ぶことができる。しかるに戦争は日々の円滑な暮らしを足元から奪いとり、弱肉強食を説く師となって、ほとんどの人間の感情をただ目前の安危という一点に釘づけにする。」

「言葉すら本来それが意味するとされていた対象を改め、それを用いる人の行動に即して別の意味をもつこととなった。たとえば、無思慮な暴勇が、愛党的な勇気と呼ばれるようになり、これに対して先を見通してためらうことは臆病者のかくれみの、と思われた。…善行をなして馬鹿と呼ばれるよりも、悪行をなして利口と呼ばれやすい世情となり、人々は善人たることを恥じ、悪人たることを自慢した。」平時においてはノモスがピュシスを抑えているが、戦乱のなかで規範が崩壊し、言葉がその本来の意味を失ったときピュシスがノモスを押しのける、というのである。

 理想的な政治家とされるペリクレスの演説と、扇動政治家のクレオンやアルキビアデスの演説を対照するとき、『戦史』を言葉の堕落が文明の衰退をもたらした悲劇として読むこともできる。ここにロゴス(言葉)とエルゴイ(行為)の弁証法的関係が現れる。ルボウによれば、トゥキュディデスは言葉と行為のうち、言葉に優位をおいている。ある行為が「善」として、あるいは「悪」としてみなされるのは社会的に分有される言葉の力のおかげである。言葉は認識の枠組みを提供し、意味を規定する。言葉が共有されるときアイデンティティも共有され、共同体意識が生まれ、規範が人々の行動を律する。ところが、言葉が共通の利益のためではなく、私利私欲の追求に用いられるようになると、共同体は瓦解する。規範は言葉によって表現され、伝達され、社会的現実となるのであるから、人間社会の動きを見るとき、まず言葉あるいは言説に注目する必要がある。これこそコンストラクティビズムの中心命題にほかならない。

 トゥキュディデスは、「私の記録からは伝説的な要素が除かれているために、これを読んでおもしろいと思う人は少ないかもしれない。しかしながら、やがて展開する歴史も、人間性の導くところ再びかつてのごとき、つまりそれと相似た過程をたどるであろうから、人々が出来事の真相を見きわめようとするとき、私の歴史に価値を認めてくれればそれで充分である。この記述は、その場かぎりの聴衆の喝采を求めるためではなく、むしろ永代の財産となるものとして書き綴られたのである」(巻1第22章)と『戦史』の抱負を語っている。トゥキュディデスをリアリストの祖とみるべきか、コンストラクティビズムの祖とみるべきかという議論は有意義ではない。ルボウも論文の最後で「トゥキュディデスはリアリストであり、かつコンストラクティビストである」と述べている。さまざまな解釈を許し、豊かな霊感の泉となるところに古典の現代的価値があるといえよう。

 

(注)本文に引用したトゥキュディデス『戦史』は、岩波文庫所収、久保正彰氏の日本語訳に筆者が手を加えたものです。ちなみに、英語文献にしばしば引用されるのは、Richard Crawley英訳のHistory of the Peloponnesian War (1910)です。かなり古いですが英訳の決定版とされているもので、いまでもEveryman Libraryから比較的容易に入手できます。

 

(中沢 力)

発表:『国際問題』2002年2月号。

ORIGINAL CONTENTSに戻る