世界政治におけるコミュニケーション的行為
(Thomas Risse, "'Let's Argue!': Communicative Action in World Politics," International Organization, Vol. 54, No. 1, Winter 2000, pp. 1-39.)
近年、ラショナリズム(合理主義)とソーシャル・コンストラクティビズム(社会構成主義)の論争が、国際関係理論の中心的関心の一つとなっている(拙稿「国際政治経済学の動向を回顧する」『国際問題』一九九九年六月号参照)。ここに紹介するリッセ(ヨーロッパ大学機関、フィレンツェ)の論文は、ユルゲン・ハーバーマスのコミュニケーション的合理性概念を導入することによって、この論争に新たな一石を投じるものである。
彼は、社会的行為において主体が従う三つの「行為の論理」を抽出している(図参照)。「結果の論理(Logic of consequentialism)」は、所与の目的と選好を前提として、自己利益の最大化を目指す行為で、かつてマックス・ウェーバーが道具的合理性と呼んだものとほぼ等しく、ラショナリストが想定する行動原理である。「適切性の論理(Logic of appropriateness)」とは、アイデンティティと状況に照らしてどのように振る舞うのが適切かを行為主体に指示する社会的規範に基づいた行為であり、コンストラクティビストが強調する行動原理である。「適切性の論理」をもって初めて、ミニ国家を含めてほとんどすべての国家が軍事的合理性を持たない常備軍を保持している事実を了解できる。「討議の論理(Logic of arguing)」とは、討議を通じて間主観的な合意を目指す行動原理であり、ハーバーマスがコミュニケーション的合理性と呼んだものである。討議の論理は、従来のラショナリズムとコンストラクティビズムの論争において明示的に論じられることが少なかったが、これまでも(とくに左派)コンストラクティビストが指摘していた、社会的相互行為の無視できない側面である。これら行為の論理はいずれも理念型であり、現実の国際関係は通常、三角形の頂点ではなく、辺や面に位置する点で行われる。

討議の論理は、権力関係が介在せず、よりよい議論によってのみ合意へと導かれる「理想的発話状況」を前提とする。より具体的には、(1) 討議相手の視点から物事を見ることができる共感の能力、(2) 世界に対する共通した認識基盤として「生活世界」を共有すること、(3) 討議者は互いに対等なパートナーであると見なされることを仮定する。また、ハーバーマスは、発言の「妥当性要求」として、(1) 自分は客観的世界に対して真理を表明している(真理性)、(2) 自分は正しい規範に従っている(正当性)、(3) 自分は相手を欺くのでなく、意図通りのことを誠実に述べている(誠実性)の三つを掲げ、これらを満たしてこそ、発言はその妥当性要求を認めるかどうかの実践的討議にかけられる資格を持つという。
これら諸条件は国際関係に当てはまらず、討議の論理を国際関係に適用するのは不適切なのではないかという疑問が、当然ながら投げかけられるだろう。国際関係には主権国家より上位の世界政府が存在せず、各国の歴史や文化は異なり、集団的世界解釈の基礎を提供する共通した生活世界を持たない。国際関係に権力が介在しないことはなく、国際関係に真理を追究する討議を想定するのは不合理である。たとえ軍事力のような伝統的な権力が行使されなくても、ミッシェル・フーコーが指摘するように、討議・言説(英語ではどちらも "discourse")と権力を切り離すことはできない。正常と狂気の境目をどこに求めるかは自明でなく、前者が後者を認定して監禁するところに権力が存在する。
このような批判に対して、リッセは次のように反論している。まず、共通の生活世界の有無については、世界の地域や問題領域によって密度に差があるものの、国際的討議を可能にする、一定の共通認識が存在していると論じる。世界政府の不在という意味の「アナーキー」という概念でさえ、主権国家が最低限共有している認識の出発点であるという。リッセは引用していないが、英国学派の国際社会論に依拠すれば、このような議論を正当化できるだろう(ヘドリー・ブル『国際社会論―アナーキカル・ソサイエティ』臼杵英一訳、岩波書店、二○○○年)。
批判の第二点である権力の問題については、ハーバーマスの理想的発話状況は現実世界の経験的描写ではなく、あくまでも理念型であることに再度注意を促している。問われるべき経験的問題は、実際に行為主体が討議の論理に従っているかどうかではなく、他の行為の論理と比較して、どの程度まで討議の論理で実際の行動を説明できるかにある。理想的発話状況の厳密な前提条件が国際関係で成立しないとしても、物質的パワーを背景にした強引な要求は認められないかもしれないし、自己矛盾した首尾一貫性のない議論は説得力は持たないだろう。たしかに、国際関係にもコミュニケーション的合理性の要素が含まれている。
リッセ論文でもっとも注目される実質的仮説は、「課題が公衆の綿密な検討にさらされるほど、物質的特権を持たない小国やNGOが討議にアクセスできるようになり、その議論が聴衆を納得させ、支持される傾向がある」というものである。リッセはケーススタディとしてモロッコの人権問題を取り上げている。リッセの研究ではないが、対人地雷を非人道的兵器であるとしてその配備・製造・保持を禁止する条約が中小国と国際NGO主導のもとで成立した事例もある(拙稿「地雷問題に立ち向かう脱国家市民社会」『国際問題』一九九九年一月号参照)。
ある問題領域において、目標と選好が相互作用を通じて不変であるときには結果の論理が、また、確立した規範があるところでは適切性の論理が有効であるかもしれない。ところが、問題をどのように定義するか、それ自体が課題となっているときには討議の論理による説明を考慮に入れなければならない。核兵器は絶対悪か必要悪か、鯨は食糧資源か観光資源かといった問題は、客観的・科学的な回答がない価値の問題であるし、確立した規範が存在するわけでもない。国際関係において、討議の論理が支配する領域は拡張しつつある、という感触を評者は持っている。
(本論文と同様の理論的関心を展開したものとして、以下の論文も参考になる。阪口功「象牙取引レジーム:知識・言説・利益」『国際政治』一九九八年一○月号、一七○〜一九一頁。三浦聡「行為の論理と制度の理論」『国際政治』二○○○年五月号、二七〜四四頁。また、ハーバーマスの社会理論の入門書として、中岡成文『ハーバーマス』現代思想の冒険者たち27、講談社、一九九六年、が読みやすい。)
(中沢 力)
発表:『国際問題』2000年10月号。