書評「勝者の代償 ― ニューエコノミーの深淵と未来
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」
Robert B. Reich, The Future of Success: Working and Living in the New Economy, New York: Vintage Books, 2002. 289p. (ロバート・B・ライシュ『勝者の代償 ― ニューエコノミーの深淵と未来』清家篤・訳、東洋経済新報社、二○○二年)四五一頁。
本書は、クリントン米民主党政権第1期に労働長官を務めたロバート・ライシュ氏(元ハーバード大学教授、現ブランダイス大学教授)の書き下ろしである。広く読まれた前著『ワーク・オブ・ネーションズ』(原著1991年)では、ボーダーレス・エコノミー(国境なき経済)における国民経済の解体と国家の選択を議論の中心に据えていたが、本書はニューエコノミーの中での個人や家族に焦点を移している。「失われた10年」といわれる日本とは対照的に[2]、1990年代のアメリカは空前の繁栄を謳歌した。しかし、アメリカの年間労働時間はヨーロッパはもとより日本よりも長くなり、家族や地域社会は崩壊の危機に瀕し、富める者と貧しい者との所得格差は拡大した。成功の代償は何だったのか、将来の社会のあり方はこの延長線でよいのか、と問いかけるのが本書のテーマである。主に90年代のアメリカを舞台に話題が展開するが、「構造改革」の名の下に同じ道を歩もうとしている日本経済・社会の選択を考える上でも、本書は非常に示唆的である。
ニューエコノミーは、テーラーシステム・フォードシステムに代表される大量生産・大量販売型のオールドエコノミーとの対比で論じられる。オールドエコノミーでは、生産工程は細分化され、部品は規格化・標準化される。企業組織はトップダウンのピラミッド的階層構造を持つ。労働者は決められた仕事を機械的にこなし、自分で稼いだ給料で自社製品を買うのに十分な収入を得る。T型フォードは約20年の間に1,500万台も売れた大衆車であった。オールドエコノミーは、薄利多売だが、市場は比較的安定しており、経営者も労働者も将来の計画を立てやすい。
これに対してニューエコノミーでは、顧客のニーズは多様化し、多品種少量生産、カスタマイズしたサービスが求められる。われわれは消費者や投資家としてこれまでにない多くの情報や選択肢を持ち、もっともよい取引を選択することができる。もしより有利な条件を提示されれば、マウスクリック1つで乗り換えることができる「すばらしい取引(terrific deal)」時代の到来だ。しかし、われわれは通常、消費者や投資家であるのと同時に労働者でもある[3]。移り気な顧客を引き留め、ライバルに出し抜かれないためには馬車馬のように働き続けなければならない。食事や子育てのような家族の機能はアウトソーシング(outsourcing 外部委託)され、友人でさえカウンセラーやコンサルタントに取って代わられる。企業は優秀な労働力を確保するために破格の条件を出し、特別な能力を持たない者の給与は余分なコストとして切りつめられる。企業は、職能ごとにスペシャリストを結びつけたネットワークにすぎず、組織としての実態を失っていく[4]。かくして所得格差は拡大し、社会は一体性を喪失する。高給取りは民間警備会社が管理する門のある家に暮らし、貧しい者は生きて行くのに精一杯である。なんと「すばらしい新世界」ではないか[5]。
われわれの前に選択肢は3つある。第1は、著者が「新ラッダイド運動(Neo-Ludditism)[6]」と呼ぶ選択で、コンピュータのプラグを抜き、ソフトウェアを燃やし、安価な海外製品を排除するために高関税をかけ、低賃金の外国人労働者を締め出すべく国境線にチェーンを張り、世界資本の流通や敵対的買収をブロックし、株主から力を奪い、極めて長期の特許保護を与えるなどして、われわれの雇用を確保しようとするものである。第2は、逆の極端で、市場からあらゆる規制を撤廃し、すべてをグローバルな市場経済で解決しようとする選択である。この結果、選別メカニズムが働いて大富豪から大貧民にいたる所得格差が生じ、個人、家庭、コミュニティがむしばまれても、これは市場がもっとも効率的に機能するためのコストと見なされる。敗者に恩恵を与えていては、がむしゃらに勝者へ向かって努力するインセンティブを削いでしまうからである。
ライシュは、この両極端の間にバランスをとる第3の選択肢を推奨する。経済のダイナミズムと社会的公正、個人の豊かさとゆとりの両立を目指すのである。これは言うは易く、行うのは難しい選択である。個人や企業は社会的真空状態の中にいるのではなく、あるインセンティブとディスインセンティブを行為主体に与え、一定の行動様式を導く社会構造の中に埋め込まれているからである。しかし、この社会構造は自然のように(神から)人間に与えられたものではない。市場メカニズムもまた、人間が歴史的・社会的に作り上げてきた人工の構築物である[7]。マクロな社会構造は、ミクロな主体の行為選択の結果として生じるのであるから、われわれの意志決定次第で変更することが不可能ではないはずである。
本書は、次のような力強い言葉で締めくくられている。やや長くなるが引用してみよう。「(消費者と投資家を超えたわれわれの役割についての論争は)単に経済的会話ではありえないし、またそうであってはならない。それはもっと根本的な道徳の問題である。われわれはニューエコノミーの単なる道具ではない。われわれは技術的トレンドの奴隷でもない。またわれわれは、間違った方向に非難の矢を向けて、より望ましくない、より恐ろしい結果を招くことのないようにしなければならない。市民として、われわれはニューエコノミーをわれわれの必要性に合うように整理する力があり、そうすることによって新興文明の形を決めることができるのである。」(清家篤・訳、四○二頁。原書 p. 250)
21世紀初頭の現在、日本では構造改革が叫ばれている。非効率な官僚制度を改め、市場に任せるべきところは政府が介入せず市場原理に委ねるべきである。しかし、社会的セーフティネットをはずし、すべてを経済原理で解決して行こうとするのは間違っている[8]。社会は、富(wealth)・権力(authority)・公正(fairness)をバランスよく分配するために、経済・政治・市民社会という少なくとも3つの社会システムを必要とし、それらが時に牽制しあいながら、協調的に働かなくてはならない[9]。グローバリゼーションの進展により明らかになってきたことは、経済原理を徹底的に追及して行くと、政治・社会システムを破壊してしまうということである。われわれは、どんなに困難であっても経済・政治・市民社会を共存させる道を探らねばならない(拙稿「グローバル・ガヴァナンス論」参照)。
第1稿: 2002年9月1日
[1] 本書のハードカバー・オリジナル版はニューヨークのAlfred A. Knopf社から2000年に刊行されているが、書評に用いたのは、2002年発行のVintage Booksペーパーバック版である。2002年版は “Introduction” が書き直されている。また、清家篤氏の翻訳書も参照した。日本語版は訳語もこなれており読みやすいが、ライシュのユーモアがあり、ときにシニカルな文体は原書にあたらなければ味わえないだろう。
[2] 本稿執筆時点(2002年9月)で日本経済の景気は回復しておらず、1990年秋には日本経済のバブルが崩壊していたとすると、失われた年月はすでに10年を超えてしまったことになる。原田泰『日本の失われた十年 ― 失敗の本質・復活への戦略』日本経済新聞社、一九九九年。
[3] 前著『ワーク・オブ・ネーションズ』ではグローバル経済の花形になる労働者を「象徴的分析家(symbolic analysts)」としていたのに対し、本書では「知識労働者/創造的労働者(knowledge workers/creative workers)」という呼称がより適切である、と若干議論を修正している。前著でライシュはグローバル経済のおける職種を次の3つに分類していた。(1) routine production workers(組み立てライン労働者、工場長など)、 (2) in-person service workers(卸売業者、家政婦など)、(3) symbolic analysts(金融ブローカー、経営コンサルタントなど)である。この中でもとりわけ重要な第3のカテゴリー「象徴的分析家」の仕事は、(a) problem-solvers(問題解決者)、(b) problem-identifiers(問題確定者)、(c) strategic brokers(戦略的仲介者)であるとした。本書では、インターネットの発達等により、たとえば投資家が証券ブローカーと同じ情報を入手できるようになったために、情報仲介者(information brokers)として働くだけでは不十分で、知識仲介者(knowledge brokers)として顧客の潜在的なニーズを掘り起こさなければならない、としている。
[4] 企業組織のネットワーク化をより積極的・肯定的にとらえたものとして、たとえば、今井賢一・金子郁容『ネットワーク組織論』岩波書店、一九八八年。
[5] ライシュは、Aldous Huxleyの古典を引いて「すばらしい新世界(Brave New World)」という言葉は用いていない。この部分は評者の脚色である。
[6] ラッダイド運動とは、19世紀初頭、第1次産業革命期のイギリス織物工業地帯で機械の普及により失業をおそれた手工業者たちが行った機械破壊運動である。村川堅太郎ほか編『世界史小辞典』山川出版、第2版、一九八八年。
[7] 自己調節的市場メカニズムを持つ資本主義はオーソドックスな経済学者が考えるような普遍的システムではなく、近代の産物であることを力説した古典として、カール・ポラニー『大転換 ― 市場社会の形成と崩壊』(一九七五年、東洋経済新報社)がある。
[9] 山本吉宣東京大学教養学部教授は、タルコット・パーソンズにならって、グローバル化した世界システムを「A: Adaptation適応(経済)」、「G: Goal attainment 目標達成(政治)」、「I: Integration 統合(社会)」、「L: Latency 潜在的パターン維持(文化)」の4つの機能に分け、これら4つの分野の相互作用をいかに管理するかがグローバル・ガヴァナンスの課題である、とした。山本吉宣「国際システムの変容 ― グローバリゼーションの進展」『国際問題』2000年12月号、二〜二一頁。評者は、これらのうち文化を明示的に論じていないことになるが、私は文化の機能を社会に含めて考えている。また、文化を社会統合という機能とは独立に、それ自体で価値あるものとも認識している。