書評「アメリカン・パワーの逆説 ― なぜ唯一の超大国は一国でやって行けないか」
Joseph S. Nye, Jr., The Padadox of American Power: Why the
World's Only Superpower Can't Go It Alone,
ソフトパワーの定義もこれまでの説明と大差ない。国家がその望む結果を得る力を国際関係論ではパワー(power,
「権力」と訳される場合もある)というが、それにはハードパワーとソフトパワーの2つの形態がある。自己の望む結果を得るためにアメとムチによって他者の行動を変える力をハードパワーという。ナイは軍事力だけでなく、経済力もハードパワーと捉えている(原書、p.8)。これに対して、ソフトパワーは相手の選好が最初から自己の利益にかなっており、強制力に訴えることなく自己の望む結果を手に入れる力である。ソフトパワーは、他者の選好を自国に有利に誘導する、政治的課題設定の能力である("Soft
power rests on the ability to set the political agenda in a way that shape the
preference of others." p. 9)。これは、グラムシのヘゲモニー概念と類似したものといえる(拙稿「グラムシと国際関係理論」参照)。ソフトパワーは単に議論の枠組みを決めるだけでなく、他者を魅了し、惹き付ける力でもある。この力によって、他者は自発的に従い、模倣しようとする。ソフトパワーの源泉は文化やイデオロギーの魅力とされるが、現実にはハードパワーとソフトパワーは密接に関連している。ある国の軍事や経済領域における物質的成功が、その国のソフトパワーを強化することも考えられる。
ナイは、情報革命とグローバル化の進展する国際社会ではソフトパワーの重要性が増すと考えている。これは1970年代に発表された『パワーと相互依存』の初版から強調されていたことだが、相互依存
[1]
が深化するにつれてパワーは無形(less tangible)で非強制的(less coercive)になるからだ。情報化社会では、信頼性(credibility)、評判(reputation)、透明性(transparency)がソフトパワーの構成要素となる。逆に、これらの要素に対する評価が低いと、ハードパワーも損なわれる。マーケットの信頼を失った国家が政治力や経済力を低下させた事例は古今東西、枚挙にいとまがない。
1990年代のアメリカは、「失われた10年」といわれる日本とは対照的に、政治、軍事、経済、文化のほとんどすべての面で唯一の超大国となった。しかし、これは米国が何でも望み通りにできることを意味しない。ナイ教授は、情報革命とグローバル化の進展によって、国家から非国家へ、米国からその他の地域へと、パワーの拡散が起きつつあることを喝破している。テロリズムも、グローバリゼーションの一環である、戦争の「民営化(privatization)」の現れであるとさえ指摘している。こうした時代潮流の変化の中で、アメリカといえども一国では解決できない問題に直面しており、前著の題名をもじって、"we are not only bound to lead, but bound to cooperate"(我々は指導力を発揮するように運命づけられているだけでなく、協力するようにも運命づけられている)という議論を展開している。
ナイは、今日の米国内の外交政策に対する立場を3つに整理している。第1は、孤立主義者(isolationists)で、米国が対外的コミットメント減らし、国内問題に資源を集中すべきことを説く。第2は、一国主義者(unilateralists)で、市場経済や民主主義といった米国的価値観を世界に広めて行こうとする対外積極派と、米国的価値観を守るために国際組織への関わりを減らして国家主権を守ろうとする対外消極派(あるいは主権論者
sovereigntists)からなる。主権論者は、少数派である孤立主義者からも支持されているという。第3は、多国間主義者(multilateralists)で、米国の国益を守るためには、国際組織や国際条約など多国間の枠組みに加わり、国際社会のルールを米国に利益にかなったものに構築してゆくべきことを主張する。ナイ教授は、この第3の立場、多国間主義にくみしている
[2]
。
ジョージ・W・ブッシュ共和党政権は、地球温暖化防止に関する京都議定書からの離脱宣言、包括的核実験禁止に関する核実験全面禁止条約(CTBT)の批准拒否、戦争犯罪等を裁くための国際刑事裁判所条約署名撤回等に見られるように、一国主義的行動が目立つ。上記の類型に従えば、主権論者が政権内で力を持っているようである。クリントン民主党政権で安全保障問題を担当してきたナイ教授が現政権の一国主義を批判する最大の理由は、傲慢で近視眼的対外政策は米国のソフトパワーを損なうから、というものである。人道重視や、紛争解決に対する軍事的手段から非軍事的手段への移行を求める、今日国際社会で形成されつつある規範に従うべき、といった論理構成にはなっていない。あくまで、米国の国益を中心に考えている。したがって、ナイ氏は、国家安全保障のような死活的課題に対しては一国主義的行動を否定していない(英語版原書、pp. 159-163)。ここに日本人である評者は違和感を禁じ得ないが、米国の政策決定者に訴えるには、米国の国益という観点から論じる方が説得力を持つのだろう。
評者は、近年のアメリカ外交政策をみると、約2,400年前のペロポネソス戦争当時のアテネの姿と重なってならない。対ペルシア戦争に勝利したギリシアでは、民主政アテネを盟主とするデロス同盟と寡頭政のスパルタを盟主とするペロポネソス同盟が衝突し、30年弱に及ぶ戦闘の末、アテネは敗北した(拙稿「トゥキュディデス ― コンストラクティビズムの創始者?」参照)。当時全盛を誇ったアテネは自らの力を恃み、傲慢な態度から、同盟諸国の離反が相次ぎ、ついには自らの民主主義政体崩壊を招いてしまったのである。21世紀のアメリカがアテネの轍を踏まないことを願うばかりである。
評者: 中沢 力(なかざわ つとむ)
2002年8月4日、第1稿。
2003年2月12日、日本語版へのリンクを追加。
[1] 専門的には、相互依存(interdependence)とグローバル化(globalization)を概念的に区別する必要性がある場合もあるが、ここでは相互依存とグローバル化は同義語と捉えて差し支えない。
[2]
ナイ氏の議論は、リベラリストの論客アイケンベリーと共通点があるように思われる。G. John Ikenberry, After Victory: Institutions, Strategic Restraint,
and the Rebuilding of Order After Major Wars,