David Armstrong, Globalization and the Social State. (Review of International Studies, Vol. 24, No. 4, October 1998, pp. 461-478.)
Ian Clark, Beyond the Great Divide: Globalization and the Theory of International Relations. (Review of International Studies, Vol. 24, No. 4, October 1998, pp. 479-498.)
「グローバリゼーション」は、現代国際関係の特徴を端的に言い当てた用語として、学問・行政・ジャーナリズムの世界で、流行語のようになっている。さまざまな領域で、それぞれ異なる世界観を持つ人々の間で用いられた結果、そもそもグローバリゼーションとは何を指すのか、その定義についてすら、コンセンサスが存在せず、グローバリゼーションをめぐる議論は錯綜した状況を呈している。本稿では、グローバリゼーションとは、人・財・サービス・情報などが時間的・空間的制約を超えて比較的自由に交流するようになる過程、ならびにその政治的・経済的・社会的・文化的帰結を便宜的に表す言葉である、というきわめて緩い定義を暫定的に採用しておきたい。
グローバリゼーションと国家の関係について、大きく分けて二つの見解が存在する。第一の見解は、グローバリゼーションの深化によって、国家は時代遅れになり、意義を持たなくなる、とするものである。これに対して第二の見解は、グローバル化した世界においても国家は引き続き重要な役割を果たし続ける、とするものである(そもそも今日、グローバル化は起きていないとする、第三の見解もある。Paul Hirst & Grahame Thompson, Globalization in Question, Polity Press, 1996)。ここで取りあげる二編の論文は、いずれも、グローバル化の進行という情勢を受け入れたうえで国家の中心性を強調する第二の所見に立ち、「グローバリゼーション」をアカデミックな分析概念として有効たらしめるにはどのような理論的再構築が求められているのか、という問題意識からの論考である。本稿ではまず、グローバル化が国家主権を浸食しているとする、第一の見解を概観し、次にこれに異議を唱えるアームストロングとクラークの議論を検討したい。
グローバル化は国家の存在を脅かす力であるとする主張の概要は、次のようなものである(以下、このパラグラフはアームストロングの要約による)。(1) 環境・保健・犯罪・麻薬・移民などにみられる現代の課題の多くは、一国の内部に収まらない問題であり、これは一定の領域内部における排他的統治権という主権国家の権利請求と抵触する。(2) 世界のさまざまな事象について、グローバルに活動する非国家主体が決定権を握る機会がますます増えている。また、個人が特定の国家から半ば切り離される数も増加している。したがって、国家の世界政治における指導的役割は、国境の内外から圧力を受けている、と言える。(3) 金融市場をはじめとするグローバル・マーケットの発展によって、国家の「経済的主権」が浸食されている。国家は市場の流れに逆らうことはできず、資本逃避を引き起こさないためには規制を緩和するしかなく、国家が市場に介入する能力は低下している。(4) ファックス・衛星放送・インターネットなど、情報通信技術の発達に伴って、国家が情報流通をコントロールする能力が低下している。国家間の時間的・空間的分離性が弱まるとともに、国家が国民に「好ましくない」情報へのアクセスを禁じることはきわめて困難になっている。(5) 「国民文化」の担い手としての国家の意義が脅威にさらされている。国民文化は、現代性・資本主義・西洋化を標榜する世界文化に脅かされている。また、反動として、国民文化が、下位のエスニック文化に分裂する事例も見られる。(6) 安全保障・経済的福祉・社会的正義といった、公共財の提供者としての国家の正統性に疑問が投げかけられている。権威を主張する国境内外の主体によって国家の正統性が傷つけられ、「新中世」的構造が現れつつある。(7) ポストモダン論者は、支配的言説に懐疑の目を向けている。啓蒙理性・実証主義的知識へのアプローチ・さまざまな二分法(国内/対外、東/西、南/北、秩序/アナーキー等)に対する信頼が揺らいでいる。これらの言説を支えていた権力基盤としての国家もまた、無意味になったとは言わないまでも、問題視されるようになっている。
アームストロング(英ダラム大学教授)は、このような見方は一面的であると反論する。グローバリゼーション論では、しばしば、固有の利益を追求する孤立した国家がグローバル化へ向かう強い流れの中で翻弄される姿が描かれる。しかし、国家もまた国際社会(文字通り、規範を共有する国家からなる社会)の一員であり、一国一国個別にではなく、国際社会全体でグローバル化に立ち向かっている。現代世界政治を非常にマクロに見ると、グローバル化と国際社会という二つの構造ないしプロセスの相互作用として捉えることができる。このような世界を理論的に把握するためには、国際社会論 (theories of international society) を展開してきた「英国学派 English School 」にコンストラクティビズムの知見を取り入れて、主に法的主権概念に依拠して静態的であった従来の英国学派の理論を柔軟化する必要がある、という。国際社会も、そのほかの社会と同様に、社会がその構成員に相互主観的意味とアイデンティティを付与する働きを持ち、その相互主観的意味やアイデンティティは社会的構成物として、社会的相互作用の結果、変容する可能性がある。国家は、グローバル化に適応するために、互いのアイディアや経験を交換し、国際社会全体として国家性に対する認識を変化させて行くのであって、グローバル化によって、国家が国家以外の何者かに変質してしまうわけではない。
クラーク(英ウェールズ大学教授)も似通った議論を展開している。クラークによると、これまで国際関係論には「大分水嶺 Great Divide 」が存在したという。それは、国内/対外の区別であり、国内政治/国際政治の区別であった。これをグローバリゼーション論に関連づけると、従来のグローバル化をめぐる議論は、(1) グローバル化を国家の産物にすぎないと見るか(したがって、国家がグローバル化の奔流を逆流させることも可能であると見るか)、(2) 対外諸力の作用によって国家は無力になり、衰退に向かっていると見るか、いずれかの二分論になってしまう。クラークはこの大分水嶺を乗り越えるべきである、と訴える。彼のイメージする国家は、国内と国際の中間に位置し、内外の諸力を調整する「仲介国家 broker states 」である。国際政治の本質は、仲介国家が、グローバル化のコストを内外に振り分ける国家の働きにある。すべてを国内要因で説明する還元主義的理論でもなく、すべてを国際構造から説明するシステム理論でもなく、国内構造と国際構造の相互作用する中間領域に定位する仲介国家の行動を解明する、新しい理論的枠組みが求められている。グローバリゼーション論では、国内要因と国際要因の相互作用の中で、国家性が変質する様を捉える視点がとくに大切である。財政金融政策を通じて総需要を調整するケインズ的国家から、規制緩和によって経済の自由な流れを促進するネオリベラル国家へと、国家の役割は変化した。グローバル化によって国家の能力が減退したとするゼロサム的視座よりも、グローバル化と国家の再定義が同時に起こったと見る方が、より啓発的である。このような国家性の変質を十分に説明するためには、国内諸力と国際諸力を統合的に扱う理論的分析枠組みが不可欠である。
国家と市場の関係が歴史的に変転してきたという指摘は、的を射ている。二○世紀の一○○年間だけを見ても、自由放任、混合経済、新自由主義と、主流となるイデオロギーは移り変わってきた(ダニエル・ヤーギン&ジョゼフ・スタニスロー『市場対国家―世界を作り変える歴史的攻防―(上・下)』日本経済新聞社、一九九八年)。しかし、両論文は、グローバリゼーション論に理論的突破口を開いたとは、残念ながら言えない。アームストロングもクラークも、グローバル化と国家の関係を明らかにするために、国際関係理論の再構築が必要であると訴えるが、必要性を唱えるばかりで、新理論を具体的に提示することはできないでいる。クラークの主張に至っては、決して目新しいものではない。今後の研究課題は、これらの理論的枠組みに実質的内容を与え、また、事例研究によってグローバル化に対する理解を深め、理論を精緻化して行くことであろう。さらに、経済領域に限らず、広くグローバル化の社会的・文化的含意を探求することも有意義であろう。
(中沢 力)
発表:『国際問題』1999年2月号